「竹島」と国際裁判例の動向 「先送り・無策で領土喪失」とならないために

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竹島(手前が東島、億が西島)にはふ頭を建設するなど、日本が不法占拠と抗議するのを無視して既成事実化に懸命の様子がうかがわれる(ロイター)
竹島(手前が東島、億が西島)にはふ頭を建設するなど、日本が不法占拠と抗議するのを無視して既成事実化に懸命の様子がうかがわれる(ロイター)

 韓国が半世紀を超えて占拠を続ける日本海中の孤島「竹島」は、日韓両国の公表史資料を国際法理論及び国際裁判例に照らして見る限り、日本政府の主張通り、日本領と考えるのが至当だ。ただ、紛争に決着をつける資格と能力のある、数少ない機関である国際法廷(国際司法裁判所、仲裁裁判所など)へのこの問題の提訴は、韓国側の反対でメドは立っていない。しかも、近年、竹島に直接の利害関係がない第三国の専門家にまで「法廷でも韓国に利あり」とする見解が登場している。そこで、仮に国際法廷での争いになった場合に浮上する日韓両国間の争点を想定して、竹島問題を検証してみたい。

インタビュー 小田滋・前国際司法裁判所判事に「竹島」問題を聞く
調査研究本部主任研究員 鬼頭誠 

 紹介した見解は、アメリカで発行されている季刊専門誌「海洋開発と国際法」(第38巻、2007年1/2月号157―224頁)に掲載された論文「 独島(トクト) (竹島の韓国呼称)の領有権と領海に関する法的諸問題」(ジョン・M・ヴァン・ダイク米ハワイ大法学部教授)で示された。ヴァン・ダイク氏は、数年前にも、米軍海外向けラジオVOAの番組で、韓国による長期の実効支配であり、対する日本側は黙認と変わりないとして、「これから国際司法裁判所に提訴すれば95%の確率で韓国が勝利する」と予測した。

 そこで、以下では便宜上、件のヴァン・ダイク論文(以下、「ダイク論文」と表記)の論点に沿って、その是非を検討していく。

「先占」も領有権の伝統的な根拠

 ダイク論文はまず、竹島を「二つの小島と32の岩礁からなる0.18平方キロの陸地」、「(韓国の) (ウル)(ルン) 島から(南東へ)88キロ」、「(日本の)隠岐から(北西に)158キロ」の距離にあると描写する。韓国政府が「近接性」を領有権主張の根拠の一つにあげているからだ。

 しかし、自国領土から紛争地までの距離が紛争相手国よりも近接していることは、過去の国際裁判例(1928年パルマス島事件判決ほか)によれば、領有権の権(論拠)にはならない。竹島は日本本土より韓国(鬱陵島)に地理的に近いが、それだけでは領有権に関して韓国側に利があることにはならないという意味だ。

 ダイク論文も、領有権の根拠として「発見」「実効的な占有」「黙認」「近接性」が検討対象になるとして「近接性」を並記はするが、むしろ、「(近年の)国際法廷は、実効的な統治権行使が直近に行われてきた実績を重視する傾向が強い」と論じ、韓国による実質占拠の現状の方をかなり肯定的にとらえている。

 領有権の根拠としてダイク論文が落としているのは「先占」(occupation)である。内外の国際法学者の解説(山本草二著「国際法」ほか)によれば、ある国が、「発見」した土地、あるいは、どの国にも所属しない「無主地」(terrae nullius)に対し、領有意思とその公示に基づき実効的な統治行為を行うことを「先占」といい、引き続き実効的な占有を行っていれば国際裁判でも領有権の主張は認められる。この「先占」こそ、後述する日本による1905年竹島領有閣議決定の根拠になった。

 なお、国際裁判例によれば、A国によりある島が「発見」あるいは「先占」されても、そこにB国が領有権を主張して実効支配し長期間を経過した場合、「時効」あるいは「長期間の平穏な実効的な占有」により、領有権はA国からB国に移転する。「長期間」に明確な数字はなく、状況によって異なる。また、「平穏」とは元の領有国(A国)による「黙認」の継続を意味し、反対に、A国が適宜適切な抗議を行う限り「時効」はその都度中断し、平穏かつ実効的な占有とは認定されない。

韓国は6世紀から竹島統治というが…

 次に、領有権の根拠としてダイク論文が列挙した「発見」「実効的占有」「時効」「黙認」及び「先占」について、竹島がどうあてはまるかを具体的に見てみよう。このうち、「発見」「先占」について検証するのに20世紀初頭までの主な歴史資料を概観し、「実効的占有」「時効」「黙認」を検証するのに第2次大戦後の経緯を振り返る。

 まず前者について、韓国は歴史的資料を証拠として、竹島を「西暦512年から領有してきた」と主張している。これが史実とすれば、韓国は竹島を長らく統治していたことになる。ダイク論文も「韓国の独島(竹島)に対する歴史的な領有権行使の実態」があると認める。例えば1900年、大韓帝国(韓国の前身)は勅令第41号で「鬱島全島と竹島石島」(韓国の解釈では「鬱島全島」は鬱陵島、「竹島」は隣接する (チュク)() =日本の竹島とは異なり日本名「 (ちく)(しょ) 」、「石島」は (トク)() )の行政管轄を宣言したが、この勅令中の「 (ソク)() 」こそが「独島(竹島)」だと力説する韓国の主張をヴァン・ダイク氏は受け入れている。

 しかし、史料を実際に検証した日韓両国の研究者らによると、韓国が竹島統治の最初の証拠としてあげる「西暦512年、新羅による鬱陵島征服」の記録が掲載された15、16世紀の官撰記録(「世宗実録」、「東国輿地勝覧」など)には、独島、竹島あるいは日本での旧名「松島」の記述も見あたらない。鬱陵島とともに登場する関連地名は、鬱陵島の属する「 ()(サン) 国」、鬱陵島に遠くないところ(「相去不遠」)の「 ()(サン)() 」しかない。そこで、韓国側の論者はこぞって、この「于山島」が「独島の古い島名」であり、独島は鬱陵島の属島だ」と口をそろえる。

 ところが、実際の鬱陵島の地図と現地写真を見れば一目 瞭然(りょうぜん) 。鬱陵島から東2キロには、約90キロ(経度で1度)も離れた岩礁に過ぎない竹島(図1東島0.073平方キロ、西島0.089平方キロ)ではなく、それよりも一回り以上大きく平地や樹木もあるれっきとした島、「竹嶼」(日本での呼称、韓国名「 (チュク)() 」、0.2平方キロ)、また、竹嶼よりはぐっと小さいがやはり平地と樹木のある「 観音(カヌム)() 」(0.071平方キロ)の2島が浮かぶ。鬱陵島周辺には、竹島に似た岩礁はたくさんあるが、人が住める島の形状をしているのは竹島ではなくこの2島だけだ。なお、韓国の人たちは竹嶼以外には島と岩との区別がつかないと主張するという(2007年島根県竹島問題研究会編「竹島問題に関する調査研究」最終報告書舩杉力修・島根大准教授論文「附鬱陵島調査報告」)。

 先の公文書の「 ()(サン)() 」、1900年勅令の「 (チュク)() 」「 (ソク)() 」を現況に照らす限り、「于山島」とは、遠く離れた岩礁「竹島」ではなく「 (チュク)() 」(竹嶼)であり、「 (ソク)() 」も岩礁「竹島」ではなく 観音(カヌム)() あたりと推察がつく。

 興味深いのは、韓国在住の米国人英語教師ゲリー・ビーバーズ氏調査による韓国国内博物館所蔵の古地図を網羅したコレクション(http://dokdo-or-takeshima.blogspot.com/)。その中には、「海長竹田 所謂(いわゆる) 于山島」と、背丈6メートルにもなる海長竹を産する竹嶼の特色が付記された「于山島」の地図もみつかる。これに対し、韓国の識者たちが「于山島」だとする竹島は古来、海長竹などの育たない不毛の岩礁だ。

 既出の「竹島問題に関する調査研究」最終報告書にも同様の詳細な韓国古地図調査報告(舩杉力修・論文「絵図・地図から見る竹島(2)」)が公表されている。

 「独島は鬱陵島の属島」だとする韓国の竹島に関する歴史的評価についても、根拠は薄いようだ。

 日本側の歴史資料には、17世紀の江戸時代、鳥取藩や隠岐の漁民たちが157キロ北西の竹島を経由、さらに西方92キロの鬱陵島へアワビ、木材などをとりに出ていた記録が多数残されている。遅くとも江戸時代、日本人漁民にとって竹島は鬱陵島への航路に位置する重要な経由地、避難場所だった。

韓国側が無視したがる観音島。韓国が1900年公文書で管轄下に置いた「石島」はこの観音島だと日本側は見る
韓国側が無視したがる観音島。韓国が1900年公文書で管轄下に置いた「石島」はこの観音島だと日本側は見る

 これに対し、韓国から日本に渡る航路は一貫して朝鮮半島の南の済州島、対馬だった。韓国人が鬱陵島から竹島経由で日本に渡った記録はただ1件(後述の (アン)(ヨン)(ボク) 一行)を除けば、存在しない。日本政府も指摘したことがあるが、15世紀から1881年まで400年以上の間、李氏朝鮮は「空島政策」で鬱陵島への韓国人の渡航も禁止していたから、韓国人は、鬱陵島を含め、朝鮮半島の東方海上への関心を持ちようがなかった。数年ごとに役人が鬱陵島検察使として派遣された記録はあるが、その中に竹島のこととはっきり分かる記載はなく、むしろ鬱陵島や竹嶼の描写と推定される記載を現代の論者が竹島のことだと決めつけているケースが多い。

 結局、歴史的にも地理的にも、鬱陵島周辺の竹嶼や観音島を属島とは言えても、晴れた日に鬱陵島をかなり登った所からやっと見える程度という竹島を鬱陵島の「属島」と説得するのは困難と思われる。

李朝は竹島を知らなかった!

 むしろ、李氏朝鮮時代の韓国は、竹島の存在にほとんど気づいていなかった可能性が高いとする見方が日本の研究者には多い。17世紀末、日本人漁民に鬱陵島で拘引されておそらく竹島経由で米子、鳥取に引致された朝鮮人漁民・安龍福の一行が4年後、今度は独自に来航し、再び鳥取に引致される事件があった。帰国後、安龍福が朝鮮政府役人に「松島(竹島の旧名)は子山島(于山島の誤記)でありわが国(朝鮮)の地」と江戸幕府に申し入れしてきたと誇張を含めて報告した。しかし、李朝政府は安龍福を密航者扱いの上、竹島のことも調査することなく無視したことが李朝の正史(「粛宗実録」)に残されている(現在の韓国では、安龍福は竹島の領有権を宣言した英雄として扱われているという)。

 地図上でも、18世紀になってやっと鬱陵島のすぐ東に「于山島」(それ以前は西側に鬱陵島と同じ大きさで描いた地図もある)が描かれるようになったが、前述の通り、現在の竹嶼の特徴を示しており、竹島と断言できる根拠は見あたらない。20世紀も間近となった1899年刊行の大韓帝国地理教科書「大韓地誌」ですら、鬱陵島と「于山島」を西洋式の経緯度表記とともに国の境と記し、経度で東に1度離れた竹島について記述は一切ない。現在韓国で呼称される「独島」という名称すら韓国の公式文書に登場したのは1906年、日本からの鬱陵島視察団が竹島の日本領への編入を韓国側に通知した後だった。韓国は20世紀に入るまで、竹島のことを知らなかったと見る多くの日本人研究者たちの主張が 信憑(しんぴょう) 性をもつゆえんである。

「無主地」の先占――日本の主張

 では、日本側は、竹島の「発見」「先占」をどのように説明できるだろうか。「発見」については、古文書等にもこれまで明確な記述が見つかっていないため、日本政府は何ら、主張を行っていない。

 ダイク論文では、「日本は1905年、竹島を無主地と宣言して45年まで統治下に治めた」が、第2次世界大戦後の「過去半世紀にわたる韓国による実効支配は国際法廷においても考慮される重要な要素だ」とまとめている。論文の前段は、1905年1月、日本が無主地であることを理由として竹島領有を閣議決定、2月に島根県が公示(「告示第40号」)し、その後40年間、実効支配したが、45年の敗戦で占領軍統治に移ったことを簡潔に記述し、後段は、54年以降現在までの韓国による軍事占拠を「実効支配」と位置づける評価を示す。

 韓国による竹島占拠は、1951年竹島周辺を含む専管水域、いわゆる「李承晩ライン」の一方的宣言に始まり54年軍事占領で完成した。それ以前は日本が統治していたわけだから、日本による竹島統治が不法・無効でない限り、韓国の行為は領土侵害であり、国際法上認められない。にもかかわらず、ダイク論文が、実力支配も長くなれば合法化するといわんばかりに、韓国の行為にきわめて寛容であるのは、1905年日本の竹島領有の閣議決定に正当性を認めていないためだ。

 同論文は、「韓国は19世紀後半、独島(竹島)とその周辺において活発にその領有権を主張していた。一方、日本はこの時期、韓国の領有権を黙認していた」との思いこみを踏まえて、1905年、日本が竹島を「無主地」として先占の措置をとったことを不当とし、その後40年間の実効支配も「国際法廷では顧慮されないだろう」とまで予想している。

 韓国が20世紀初頭まで竹島を実効支配していたというダイク論文のような誤認がまかり通れば、竹島「先占」論をとる日本の主張の正当性にも影響が及ぶ。国際法廷でも繰り返される危険があるだけに、十分な史料、反証をそろえて対応を整えておく必要がある。

 ところで、「日本はこの(19世紀の)時期、(竹島に対する)韓国の領有権を黙認していた」とのダイク論文の認識は法学者の論文としては粗雑だ。1877年、明治政府は「鬱陵島ほか一島のことは日本に無関係と心得よ」との趣旨の太政官指令を内務省など関係者に対し発している。そこで、韓国は、この指令は日本が竹島の韓国領有を認めた証拠だと主張する。しかし、文書は日本が「鬱陵島ほか一島(おそらく竹島)」を領有する意思のないことは確認しているが、韓国による領有を認めた文書ではないからだ。しかも、数年後(1883年)、鬱陵島への渡航自粛を指示した太政大臣の指令文書には「日本称松島一名竹島朝鮮称鬱陵島」(日本では松島あるいは竹島と称する朝鮮名の鬱陵島)とあり、この時代に日本政府の念頭にあったのは鬱陵島だけに過ぎないとの研究結果もある(詳細は、島根県竹島問題研究所ホームページ掲載の2007年塚本孝・国立国会図書館参事による出雲高校講演メモ「竹島領有権紛争の焦点―国際法の見地から」を参照)。

 1905年1月28日付、竹島領有の閣議決定を見ると、「(経緯度=略)にある無人島は他国において之を占領したりと認むべき形跡なく…該島を竹島と名づけ…明治36(1903)年以来中井養三郎なる者該島に移住し漁業に従事せる…所なれば国際法上占領の事実あるものと認めこれを本邦所属とし島根県所属隠岐島司の所管とす」とある。

竹島を島根県に編入し隠岐島司の所管とする閣議決定書(国立公文書館蔵)
竹島を島根県に編入し隠岐島司の所管とする閣議決定書(国立公文書館蔵)

 閣議決定とは別に、日本政府は現在、竹島は「我が国固有の領土」と説明している。17世紀から、もっぱら日本漁民が漁採地、避難島として使っていたところの「我が国固有の領土」であり、その事実で十分だが、念のため「先占」という近代国際法の領土取得要件に従って、領土権を明確にする趣旨から閣議決定したのだとする。

 この説明に対しては、韓国から、「無主地」だから占領したという一方で「固有の領土」だと主張することは矛盾する、と批判されてきた。ダイク論文も同じ点を指摘し、「独島(竹島)が無主地だったとの日本の主張は、古い時代には独島(竹島)との接点が領有権を確実にするには十分ではなかったと認めたことになる」と論じ、「無主地」と「固有の領土」を国際法廷で同時に主張するのは「禁反言(estoppel)の原則」(相反する主張で紛争相手国の抗弁を封じることを禁ずる原則)により認められまいと予想している。

 「固有の領土」とは、「一度も他国との間でやりとりしたことのない領土」(塚本前掲論文)のことであるとすれば、「無主地」論との矛盾は幾分薄まる。ただ、ヴァン・ダイク氏の示唆するように、植民地主義の西欧列強に直面する以前、日本に「固有の領土」と言えるほど辺境についてまで明確な領土・国境認識があったかは疑問なしとしない。先の太政官指令のように島の領有権を放棄していたとも読みうる文書が残っていることも踏まえれば、「外国に譲ったことのない地」という意味を超えてまで「固有の領土」論を強調する必要性も少ないように思われる。

竹島編入と韓国併合の関係は

 竹島の日本領土編入に関して、歴史問題を抱える日本側の弱みを突く形で、韓国が内外に向けて盛んに訴えているのが「竹島侵略(編入)は韓国併合(1910年)の第一歩だった」という論だ。ダイク論文も、竹島を日本が編入する1905年以前には韓国が占有していたとの誤った前提に立っているため、「独島(竹島)に関する日本の行動は、北東アジアの軍事占領と40年間の韓国支配をもたらした領土拡張政策の文脈の中で理解すべきである」と、韓国領侵奪の第一歩との主張をうのみにしている。

 この論への対抗策としては、1905年以前、竹島が韓国の領土でなかったことを明確に論証するに尽きる。

 日本が実効的に占有していた事実を史料で示す一方、1905年時点で韓国が、竹島を認識あるいは占有していなかったことを傍証する必要もある。韓国側の反証が十分でなければ、竹島編入は、韓国併合とは無関係ということになる。

 もっとも、話がそれで終わらないのは、日本には、1910年の韓国併合の前段階から負の歴史遺産があるためだ。ダイク論文も詳述するように、竹島編入に先立つ1904年8月、日本は日露戦争(1904~05年)を有利に導くため第1次日韓協約を締結して韓国外交当局が日本指名の外交顧問(アメリカ人)を受け入れることを強い、また、竹島編入から10か月後の1905年11月には、今度は韓国支配を念頭に第2次日韓協約を締結し、外交権を奪った。

 韓国外交への介入時期がこのように竹島編入の時期と相前後しただけに、国際法廷においては、竹島領有の政策が、韓国支配・併合政策とはなんらかかわりなく、国際法及び国際関係上公正な手続きで行われたことを証明する必要がある。

サンフランシスコ平和条約で竹島は日本に復帰

 1951年9月調印、52年4月28日発効の対日平和条約は、第2条で「日本国は、朝鮮の独立を承認して、済州島(Quelpart)、巨文島(Port Hamilton)及び鬱陵島(Dagelet)を含む朝鮮」に関する権利、権原、請求権を放棄すると規定した。条約は原案の第1段階では、日本が朝鮮に返還する島をすべて列挙する長文の形式がとられ、その中に竹島(Liancourt Rocks)も含まれていたため、日本が修正を求め、第2段階では竹島は日本の領土として書き込まれた。さらにダレス米国務長官顧問の意向で、最終段階では簡潔な形式に改まり、日本が韓国に返還する主な島を前記の三つだけ記す形式となった。列挙された3島を結ぶ線より韓国側の範囲で返還すべき島々が示されたと解しうるが、明記されてはいないため、竹島も含んでいると、韓国に強弁をゆるす余地を残した。

 しかし、条文の形式が変わっても、竹島を日本の領土とする趣旨に変更はなかったことは、数十年後に解禁された米外交文書で明らかになっている。それによると、条約調印の約50日前、第2条に竹島が含まれていないことに気づいた駐米韓国大使がダレスに修正を要求。米は51年8月10日付のラスク国務次官補回答で「この島(竹島)は朝鮮の一部となったことはなく、1905年頃から(日本の)島根県庁隠岐支庁の管轄下にある」との理由で拒否した。同様の米外交文書は52年12月4日にも発出されている(前掲の塚本孝メモ、「竹島問題に関する調査研究」最終報告書中の塚本孝論文「サン・フランシスコ平和条約における竹島の取り扱い」を参照)。

 ただ、この事実は、日韓の板挟みになることを嫌ったアメリカが長らく公表しなかった。米韓間のやりとりを日本が知らない間に、韓国の李承晩政権は条約発効前の52年1月、実力行使に踏み切り、竹島を囲う李ラインを設定。その後も占拠し続ける一方、条約解釈においては、前記アメリカとのやりとりの真相には口をつぐんだまま、現在に至るも、第2条には竹島も含まれ韓国の措置は合法だと言い続けている。

 ダイク論文は交文書で明らかなこの経緯については、歯切れが悪い。韓国が竹島を古来占有していたとの前提に立つから、正反対の立場に立つラスク回答を受け入れることもできず、「連合国は情報が十分でなかったのか、竹島問題を将来に向けてオープンに残した」と、苦し紛れの解説に終わっている。

 占領期から独立回復期の外交文書に関しては、第三者の連合国の判断として、日本に分がある証拠はそろっており、国際法廷においても有利に働くと考えられる。

日本の抗議は既成事実化阻止に不十分との見方

 しかし、現実の竹島は、54年の灯台建設以来、韓国が長らく日本人の竹島上陸を阻止し、力による支配の既成事実化を強めている。国際裁判例では、紛争が顕在化した後に自国の立場を有利にするためにとった措置は法廷では顧慮されない、とする「決定的期日」の法理が適用されたこともあるが予断を許さない。

 また、冒頭でも紹介したように、ダイク論文によれば、領土権主張に関する現代の国際法廷は、「実効的占有」を重視しており、韓国の実力占拠が平穏・長期に継続すれば「時効」による取得と同様の効果をもたらすとの見方もある。

 この観点から、同論文は、日本の対抗措置が「時効」取得を阻止するに十分なものか否かに注目しつつ、この半世紀間の日本の対応を次のように例示する。

 (イ)1954年国際司法裁判所(ICJ)への合意提訴を韓国に提案して拒絶されている(ICJ提訴は当事国が合意する必要があるため、韓国が応じない限り提訴は出来ない)。(ロ)53~62年にかけ、日韓外交当局者間による4次にわたる竹島領有権論争が口上書交換の形で行われた。(ハ)65年の日韓基本条約調印の際には竹島を明記しない付属文書の形で問題を先送りした。(ニ)年1回程度の間隔で抗議文書を発出する一方、96年の韓国の軍事行動には抗議をしなかった。(ホ)2004年韓国の竹島切手の発行に対抗しなかった。

 続いて同論文は、「時効」取得に関する過去の国際裁判例を例示する。そのうち著名なものを引用する。

1911年メキシコ対アメリカ仲裁裁判判決  米が半世紀支配したリオグランデに接する土地の取得時効を主張。メキシコはこの間、4度、外交ルートを通じ争ってきたと反論。法廷は、外交手段による穏和な抗議が米の「平穏な占有」の主張を無効にし、時効取得を阻止するに十分と判示。

1953年イギリス対フランス国際司法裁判決  英仏間マンキエ・エクレオ諸島につき、両国は古くからの固有の領土権を主張し合ったが、判決は「決定的重要性をもつのは占有に直接関係する証拠」として実効的支配を重視した。

1998年エリトリア対イエメン仲裁裁判判決  両国に挟まる紅海の中の無人諸島をめぐり、戦闘を経て96年仲裁裁判に付託を合意。古い時代の権原が決定的でない場合、比較的最近にける領土の平穏な使用と占有が主要な根拠となりうると判示。

2008年5月シンガポール対マレーシア国際司法裁判決  シンガポール海峡付近、旧ジョホール王国(現マレーシア)のペドラブランカ岩礁に19世紀イギリスが灯台建設。マレーシアは1979年、岩礁の領有権を主張したが、53年以来灯台を管理してきたシンガポールが、マレーシアは容認していたと抗弁。外交交渉の末、3年ICJ提訴で合意。岩礁はシンガポール領に。

 これら(2008年の事例は筆者が追加)を踏まえて、ダイク論文は、半世紀にわたる日本の抗議活動は時効取得を阻止するに十分ではないと厳しい見方を示す。具体的には、「日本は、竹島周囲に巡視船を出し領有権の主張を補ってはいるようだが、それで十分だろうか。1954年以降、日本は国際法廷に委ねるよう圧力をかける手段もとってきていない」と指摘。さらに「過去の判決では、『抗議はそれ自体で黙認を阻止するに十分とはいえない』との判示もあり、抗議する国には国際法廷など活用できるあらゆる試みによって主導権をとることが要求される」と結論づけている。

 日本が韓国に対して国際法廷への合意提訴を公式にもちかけた最後は1962年の外相会議だから、論文には事実誤認もあるが、日本のこれまでの対応に対する警鐘も含んでおり注目に値する。実際、フォークランド諸島のイギリスによる実力占拠が時の経過とともに公認されてしまった例もあり、「事実の規範力」は要注意である(太壽堂鼎著「領土帰属の国際法」を参照)。

先送り政治のあやうさ

 日本の竹島政策に関する政治指導は、ダイク論文の指摘通り、日韓正常化以降は、先送り以外にはほとんど無策に等しかったといってよい。安倍晋三政権以前の国内的な広報活動はとぼしく、対外的にも韓国の不法占拠に対する抗議の事実を公表しないことが多かった。先般の文科省学習指導要領解説書への「竹島明記」問題の際も、先方には通じそうもない譲歩外交に終始し、韓国側こそ問題の多い公教育のあり方に要望もしていないようだ。8月には、アメリカで地図表記を扱う政府機関「地名委員会」が「韓国領」と誤記していた竹島の帰属を「主権未確定」と正したのに対し、韓国の圧力で訪韓直前、ブッシュ大統領が政治判断し、元の表記に戻された。米大統領の政治判断だけに期を失せず先の50年代外交文書の再確認を当局者間で行うべきだが、日本政府がアメリカに善処を申し入れたという話は聞こえない。

  ()(ミョン)(バク) 韓国新政権は、竹島に関して、「静かで断固とした外交」の意向といわれる。これが、国際社会に対しては静かに、日本に対しては断固とした態度で臨む趣旨だとすれば、手ごわい。なぜなら、日本がこれまで通りの先送り政治を継続する限り、韓国は不法占拠に抗議する日本の意欲をますます強硬な姿勢で押さえつけ、その他の国際社会に対しては「平穏」で「実効的」な統治権の行使であることをアピールし続け、時効取得への道筋を着々と踏み固めていくことを意味するからだ。

 日本の国内には「歴史も法的解釈もややこしい」から「未来に向けて柔軟な発想を」(朝日新聞コラムニスト若宮啓文氏による2008年7月21日の同紙「風考計」)と提唱する論者もある。しかし、こうしたいわゆる「リベラル」の主張は、国際社会の現実と常識を無視し、国家社会の基礎である領土を軽んじるものである。過去の歴史に率直に向き合うという意味においても、むしろ歴史をあいまいにする不誠実な対応といえよう。

 国際法廷への提訴は、原則として当事国が合意することを前提としており、韓国が断固拒否する以上、実現の可能性は低い。しかし、日本が提訴を主張すること自体が、竹島の領有権をめようとする韓国の国際的な立場を弱め、国際法廷が開かれた場合に日本の立場を有利に導くことになるということは、もっと理解されてしかるべきと思われる。

 むろん、国際法廷、さらには国連安保理など国際社会に仲介を求める手法は、竹島問題に限った話ではない。懸案のロシアとの北方領土問題や中国との東シナ海ガス田問題では、およそ第三者の関与を嫌うロ中両国に対しても、2国間交渉の水準に応じ、外交の幅を拡げる意味で一層の活用を強化してしかるべきだろう。

プロフィル
鬼頭 誠氏( きとう・まこと
 1976年東京大学法学部卒。政治部、ワシントン特派員、論説委員などを歴任。2013年帝京大学法学部教授。著書(共著)に『検証 戦争責任』『検証 日露戦争』など。

※この論考は調査研究本部が発行する「読売クオータリー」掲載されたものです。読売クオータリーにはほかにも関連記事や注目の論考を多数収載しています。最新号の内容やこれまでに掲載された記事・論考の一覧は こちら にまとめています。
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