軍事拠点であるお城には、橋、壁、堀など、すべての構造に様々な工夫が凝らされています。敵軍にとっては突破が難しく、自軍にとって有利に戦を運ぶことができるように考え尽くされたその工夫は、歴女ならずとも思わず唸ってしまうこと間違いなしです。
ここでは、「虎口」(こぐち:城郭や陣営などの要所にある出入り口)の進化に合わせて造られた「馬出」(うまだし:お城の虎口や城門を掩護するために、その前に設ける土塁や石塁)、塀に仕込まれた「狭間」などのお城の工夫や、こうした難攻不落の構造を突破するために編み出された戦術をご紹介します。
お城の入口は、敵兵が一気になだれ込まないように小さく狭く造ることから「小口」(こぐち)と記され、次第に「虎口」と表現されるようになっていきました。
虎口は、敵味方が対峙する最も重要な場所。そのため、「いかに敵を直進させずに勢いをそぐか」や、「敵が押し寄せてきても、あらゆる方位から迎撃できるか」を考えて造られました。
側面攻撃ができるように備えておくことは、縄張りの基本。当初は、塁線を複雑に屈曲させることで、側面攻撃をできるようにしていましたが、隅部が死角になりやすい石垣を築いたお城では、直角に曲げた直線的な塁線をつくることによって、三方向から一斉攻撃できるようにしました。攻撃側、防御側の気持ちになって虎口を歩いてみるのも、歴女ならではの楽しみ方だと言えます。
曲輪や城内にそのまま出入りできる虎口を「平虎口」(ひらこぐち)と言います。
土塁を割って門を置いただけの単純な造りです。敵は虎口を突破すると、そのまま城内へ直進できてしまうため、虎口の奥に横一直線の土塁「一文字土居」(いちもんじどい)を築き、敵兵の進路を遮り、城内を見通せないようにしていました。
虎口の内側に設けた「蔀土居」(しとみどい)、外側に設けた「翳土居」(かざしどい)があり、これが、虎口の前に土塁を築く「馬出」(うまだし)のはじまりです。
馬出は、堀を挟んで虎口の対岸に土塁で小さな区画を設けて、攻守の拠点にした設備。戦国時代後半には、土塁を三日月状にした「丸馬出」(まるうまだし)やコの字型の「角馬出」(かくうまだし)など、様々な形態が登場しました。
敵兵は、馬出を突破しないと虎口に入れないため、馬出の両サイドに押し寄せてきます。そこを狙って、馬出内と城内の二方向から攻撃を仕掛けました。
歴女にも大人気の「真田幸村(真田信繁)」は、「大坂冬の陣」で巨大な馬出である「真田丸」を築き、徳川軍を大いに苦しめています。こうした経験を経た「徳川家康」も馬出の効果を重々承知しており、「江戸城」では、角・丸・変型の3つの馬出が連続して設けられました。現存する馬出では、「名古屋城」と「篠山城」で角馬出の遺構を確認できます。
平行だった土塁を前後に互い違いに置き、虎口を折れ曲がらせたのが「喰違虎口」(くいちがいこぐち)です。
側面に土塁の切れ目を設けることによって、敵兵は門の前で曲がらなくてはならず、必ずここで足止めされてしまいます。そこを土塁や石垣の上から一斉に攻撃するのです。
この方法では、側面ができることによって死角をなくし、複数で攻撃することが可能となりました。このように塁線を屈曲させることを「折れ」、側面から攻撃を仕掛ける工夫を「横矢掛」(よこやがかり)と言います。
敵を1ヵ所に集めて、一網打尽にするための仕掛けのが「枡形虎口」(ますがたこぐち)です。
虎口を石垣や土塁で囲み、桝のように四角い広場に誘い込むことで、四方から敵を攻撃して、一網打尽にできます。
近世城郭では、石垣や櫓門を用いてより堅固な守りを構築しました。慶長後期には、ここから派生して、お城の外側に小さな門である高麗門、内側に大きな櫓門を置き、櫓門や塀の三方から一気に矢を放って攻撃できる構造が生まれました。
この仕掛けを完成させたのは、歴女の間でも築城の名人として知られている「藤堂高虎」(とうどうたかとら)だと言われています。
お城造りでは、城主の住む本丸に容易にたどり着けないように設計されます。二の丸などは、本丸を囲むように配置され、門、塀、櫓、石垣、堀など多くのしかけが構築されました。
天守などの建物の姿だけでなく、お城の攻防戦にも思いを馳せてお城巡りをするのが、歴女流だと言えます。
橋も重要な防衛手段となりました。橋は「木橋」と「土橋」の2種類あります。
木橋は、撤去も簡単ですが、燃やされてしまえば城内に閉じ込められるリスクも。対して土橋は、丈夫で容易に破壊できない利点があり、重要な入口には土橋が使われました。
しかし、木橋のように外せないため、幅を狭くして一度に大人数が渡れないようにしたのです。さらに、櫓などによって周囲から丸見えの状態にしていました。
木橋の中には、橋を渡る敵に横矢(側面攻撃)を仕掛けられるよう、門に対して直角ではなく、斜めに向かって架けられた「筋違橋」(すじちがいばし)や、カクカクと折れ曲がらせた「折長橋」(おれながばし)といった橋も架けられました。橋と並行に建てられた塀や櫓から矢を飛ばせるような角度になっています。
裏口の橋は、戦いになると守備の労力を減らすために、「引橋」(ひきばし)で橋を城内に引き込めたり、縄で上げ下ろししたりし、また「桔橋」(はねばし)で「鉄菱」(てつびし:ヒシの実形をした4本のとげがある鉄製の武器)をまいたり、柵で封じたりして防衛しました。
石垣や土塁の上に必ずある物が、土塀です。木の骨組みの上に粘土や泥を塗り込め、江戸城では全長10kmもの土塀がめぐらされるなど、多くのお城で活用されました。
現在は、「備中松山城」、「金沢城」、「丸亀城」、「大阪城」など10城の城で現存しています。
また、塀を支える柱のある「控塀」(ひかえべい)については、合戦の際に臨時の物見台となりました。柱に通した貫(ぬき)の上に足場板を置けば、土塀越しに敵の様子をうかがうことができ、塀の屋根上からも射撃できます。
塀には、お城の内側で警備する守備兵が敵に身をさらすことなく攻撃できる工夫があり、天守や櫓、塀などの壁面には、「狭間」(さま)という穴を開けられていました。
形は◯や△、□など様々で、形によって武器を使い分けます。長方形の穴は、弓矢を放つための「矢狭間」(やざま)。
正方形や三角形、円形などは鉄砲を撃つ「鉄砲狭間」(てっぽうざま)です。弓は立って射ますが、銃は座って撃つため、矢狭間と鉄砲狭間では高さが違います。
また、雨の日には火縄銃が使えないため、壁に鉄砲狭間だけが並ぶということはなく、矢狭間と交互に設置されました。いずれも円錐や四角錐のように城内側が広く、城外に向けて狭まっているのが特徴です。それによって城外からの攻撃は命中しにくくなり、城内からは傾斜を利用して射撃範囲を広げられます。
狭間は、死角をつくらせないよう様々な場所にあり、大城郭では4,000以上も見られることも。また、狭間があるだけで敵が警戒して近寄らなくなったことから、普段は漆喰などでふさいでおき、緊急時に叩き割って使う「隠し狭間」も作られました。「彦根城」や「大洲城」、金沢城に現存しています。
石垣や天守台の隅部は死角になりやすいことが多いため、天守や櫓、門、塀などの床面に造られました。これが「石落とし」です。
石落としから石垣を上ってくる敵を槍で突いたり、熱湯、油、糞尿を浴びせたりして妨害するために使用していたという説が有力ですが、さほど効果がなかったため、実際は鉄砲狭間として使われていたという説もあります。
「松江城」の天守閣にある「隠し石落とし」は、2階に石落としを設け、一重目の屋根裏に開口するという手法。敵も簡単には見破ることができなかったに違いありません。
また、「松本城」の大天守には、隅部だけでなく中央にも石落しを設置しています。狭間では攻撃し切れない広範囲の攻撃に備えただけでなく、密かに少数の兵を忍ばせておく隠し部屋も用意していました。
「野戦」では、敵対する両軍が陣を張って対峙します。このとき総大将は、地形や自軍の兵力などを勘案した陣形を選択。これを体系化したのが「武田信玄」によって生み出されたと言われている「戦国八陣」です。
徳川家康が率いる東軍と、「石田三成」が実質的な総大将を務めた西軍が激突した関ヶ原の戦いでは、東軍が「魚鱗の陣」(ぎょりんのじん)、西軍は東軍を包み込むように「鶴翼の陣」(かくよくのじん)を選択したと言われています。
「海戦」においては、海の上での戦いはもちろんですが、海岸線の陸地を制圧することが重要でした。
また、壇ノ浦の戦いで源氏が勝利した裏側には、瀬戸内海から豊後を制したことで、平家の退路を完全にふさぎ、水陸両面から矢を射掛けて孤立させる作戦があったとも言われています。
籠城戦は、兵力が劣る場合に有効な選択肢でした。なぜなら、最低でも3倍の兵力がないと攻め落とすことが難しいと言われていたからです。
籠城戦は、身動きが取れないイメージがあり、攻められれば勝ち目がなくなってしまうようにも思えますが、味方からの援軍である「後詰め」(ごづめ:先陣の後方に待機している軍勢、予備軍)が到着するまでの時間稼ぎが主な目的。
当然、本城も他で戦っていたり、妨害にあったりしていれば、援軍が来られないこともありますし、数ヵ月にも及ぶ籠城戦では、敵側も攻撃をあきらめて撤退してしまうこともありました。
後詰めが勝利を導いた例としては、1540年(天文9年)の、「毛利元就」軍と「尼子晴久」(あまごはるひさ)軍の戦いがあります。軍勢8,000の毛利元就軍は、尼子軍が30,000の兵力で押し寄せてきたため、安芸郡山城に籠城。そこへ10,000の「大内義隆」(おおうちよしたか)軍が到着して、尼子軍を挟み撃ちにしたことで、逆転勝利を飾りました。
しかし、後詰めが敵に阻止されてしまうと、籠城軍は完全に孤立状態となり、そのまま餓死するか、家臣や領民の命と引き換えに城主が降伏するか、死ぬ気で城外に出て戦うかの選択しかありません。籠城戦は、後詰めを前提にするからこそ成り立つ戦法でもありました。
籠城戦が一般的な選択肢でもあった時代、来るべき戦に向けて、備えは重要だったと言えます。大切なのは食料と水。水に関しては、城内にかなり多くの井戸が用意されていました。雨水を溜めたり、遠くの水場から樋などを使って引いたりするなど、常に十分な水量を確保。
米や麦、味噌、塩、魚の干物、干飯(ほしいい)などを保存していた他、緊急時には、植物や干物などの非常食を食べて飢えをしのぎました。畳や土塀の詰め物に、干しわらびを使ったり、梅や銀杏を植えたりするなど、長期戦に備えたお城造りをしていたのです。
籠城した敵の城攻めをすることを「攻城」(こうじょう)と言います。前述した通り、籠城されてしまうと、簡単には破ることができないため、城下で乱暴や放火、略奪などあらゆる狼藉を働いて、相手をお城から引っ張り出して野戦に持ち込もうとしました。
しかし、その挑発に乗らないと分かると、長期戦に備えて、籠城している城の周囲に簡素なお城をいくつも建造。柵や仮設の塀を設けて、お城からの攻撃を防ぎつつ包囲網を狭めていき、力攻めや、兵糧攻め、もぐら攻めなど、攻める側はあの手この手で揺さぶりをかけます。
そんななか、竹を束ねて円柱形にした盾「竹束」(たけたば)や、木を組んで作った櫓「井楼」(せいろう)、櫓や門を破壊するための大砲、火薬を仕込んだ「火矢」(ひや)など、お城攻めのための様々な武器も開発されました。
戦いの基本は、武力で押す力攻め。場外から大砲で門を壊し、火の付いた矢を放って櫓を燃やし、堀を土で埋め、はしごをかけて塀を乗り越えながら、正攻法で侵入する作戦です。
迷路のように入り組み、数々の仕掛けを隠し持っているお城を攻めるのは至難の業であり、相当な兵力差がなければとうてい勝ち目はありませんでした。
お城周辺の民家を破壊して、そこで出た木材だけでなく家財道具まで一切合切を運び込んで堀を埋め、一斉攻撃を仕掛けたのは、「深根城」(ふかねじょう)を陥落させた「北条早雲」です。
犠牲を覚悟で強引に実行されたのは、伊豆平定という目的があったから。足利氏の深根城を完全に攻め落とすことで、力を誇示したと言われています。
奇襲の天才と呼ばれた北条早雲が、「大森藤頼」(おおもりふじより)の「小田原城」を攻めた際には、まずは贈り物作戦で小田原城主を油断させ、その信用を利用して領地に侵入し、自軍を小田原城の背後に潜ませました。北条早雲は1,000頭もの牛の角に松明を付属させて、小田原城へと放つことで、敵軍に大軍が押し寄せてきたと錯覚させたのです。
また、奇襲には周到な準備が重要でした。堅固なお城に攻め入るには、躊躇なく進むことが必要であり、敵城の内部情報を事前に仕入れておかないと、即座に返り討ちに遭ってしまいます。そのため戦いに備えて、敵の家臣の中に内通者を送り込んで、数々の情報を得ていました。
事前に相手を油断させ、徐々に近付きながら戦いに備えていかねばならず、敵側に少しでも怪しい動きを感じられれば攻め込まれてしまう危険もあったため、「織田信長」や武田信玄など、知将でなくては成し得ない作戦でもあったのです。
「豊臣秀吉」は、お城攻めの達人として知られています。力攻めのような「直接対決」ではなく、兵糧の経路を途絶えさせ籠城軍を飢えさせる兵糧攻め(ひょうろうぜめ)が得意でした。
1581年(天正9年)、「鳥取の渇え殺し」(とっとりのかつえごろし)と呼ばれた因幡鳥取城攻めでは、豊臣秀吉はお城を包囲して兵糧攻めを開始。籠城する可能性も考え、あらかじめ商人達を城下に送り込んで、米を高い値段で買い上げていました。
さらに、籠城を長引かせないために、因幡の農民達をひどい目に遭わせて鳥取城へ逃げ込ませることで、城内の食糧を早く食いつぶさせたのです。
その結果、多くの餓死者が出たばかりか、城内では人肉を食い合うほどの地獄絵図に。城主は降伏を申し出ることになり、豊臣秀吉は城主を切腹させる代わりに、城内の兵や領民を解放し、たくさんの食料を食べさせました。
もっとも、開放された兵や領民らは、急激な栄養摂取が原因となって死んでしまったという逸話も。鳥取城には、豊臣秀吉の兵糧攻めの本陣跡が残っています。
坑道を掘る技術に優れた「金山衆」(かなやましゅう)を動員して、お城の外から城内に向けてトンネルを掘り進め、城内に侵入したと言われています。トンネルを掘ることで、籠城軍に不安感を与えたり、城内の井戸を壊して水不足にしたりするなどの目的がありました。
石田三成も「忍城(おしじょう)攻め」において水攻めを試しましたが、堤防が決壊して失敗。土木技術に長けた豊臣秀吉だからこそできた作戦でした。
また、急遽堤防を造るために人力が必要になりますが、豊臣秀吉は、十分な経済力を活かして高い報酬で農民を集め、素早く囲んでしまったことで完全なる包囲を実現。「備中高松城」では、その当時に造られた堤防址がわずかに見られます。