新城市、設楽原決戦場の跡地に行きました。

5/31。

長篠城址から西に4㎞ほどの地点です。

 

 

ここの前に行った

長篠城址史跡保存館でもらった資料で

位置関係を確認しますと、

(見にくいですが)

設楽原(左の赤丸)←長篠城(右の赤丸)、

この間、約4㎞。

 

資料の右のほう。

長篠城の東に、

5つの山の砦があり、真ん中に鳶ヶ巣山砦が

あります。

 

設楽原決戦までの経緯を確認しますと、

 

天正3年(1575)
 
5月1日、
武田勝頼は15000の兵で長篠城を取り囲む。
対する長篠城主・奥平貞昌はわずか500の兵で
武田軍の猛攻に耐えていたが、
落城寸前であった。
5月14日、
鳥居強右衛門は岡崎城へ使者として走る。
 
5月18日、
援軍に来た織田・徳川連合軍38000
は城の手前(西)4㎞地点まで進軍。
連合軍は設楽原の地に陣を構えた。
5月20日深夜、
連合軍は 鳶ヶ巣山砦への奇襲攻撃を決行。
 
5月21日早朝、
奇襲攻撃により後方を襲われた武田軍は
西の最前線である設楽原への進軍を余儀なくされた。
連合軍は
大量の火縄銃と2㎞に渡る馬防柵を巧みに使い、
わずか8時間ほどで大勝利を得た。
 
 
設楽原決戦場の跡地には、
大きな屏風絵がありました。有名な屏風絵ですね。
この絵は位置関係をよく表していると思います。
 
連合軍は3重の馬防柵を築きました。
 
武田軍の土屋昌次という武将は、
2重の柵を突破したんですが、
3重目のこの地点で、戦死したようですね。
 
 
今夜の「どうする家康」、
予告では、この馬防柵から鉄砲を撃っているシーンも
ありましたね。
どうなりますでしょうか。楽しみですね!