"信長は鉄砲を手にしたその日から、これを戦にどう活かすかを考えていた。
いや、武士なら誰もがそう考えていたはずだ。
"だがその運用工程の多さや高価さ、弾丸や火薬の材料を輸入に頼っている故に運用は限定的にならざるおえなかった。
その弱点を洗い出し克服する方法を常に考えてきた。
岐阜から大量の丸太を持ち込んだのも、その秘策の為だった。
実験的な側面もこの戦にはあったのかも知れない。
"家康軍にも連吾川の西岸に延々と柵を築かせ、更にそれを三重に用意させた。
信長が軍議で語った戦の構想と築かれた柵の壮大さに、織田徳川の将は震えが止まらなくなった。
無論、勝利を確信するからこその武者震いに他ならない。